おたくの記録帳

好きを言語化する場所

舞台感想(ネタバレあり) 『フェイクスピア』

 あの、楽しさと不安が同時にやってきた春から夏にかけての日々を思い出しながらこれを書いております。

 公演が決まったとき、公演前、公演中、ずっと昨年抱いた想いがチラついていました。はたして幕は上がるのか。無事に公演を終えることができるのか。

そんな中、全公演を完走したフェイクスピア。まるで細く、暗い、狭い通り道をくぐり抜けるかのように思えて仕方がありませんでした。

 というわけで、WOWOWで放送されるタイミングで『フェイクスピア』について自分なりに振り返ったり、こんなこと思ってたなぁ、なんてことを残せたらと思っています。公演中や公演直後にもメモ程度に残してたものがあるのでその辺も含めて少し。

タイトルにもつけましたが、この先、若干ですがネタバレも含むのでここまでずっとネタバレ避けてた方は戻ってくださいね!今までの努力、無駄にしないでくださいよ!

いいですね、言いましたよ!プレイハウスの写真で隠しましたんで!

 

 

 

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 そろそろ大丈夫ですかね?本題に入ります。

 先にこの話からしますが、事故に関してはニュースで毎年やっているから知っている、というくらいの世代です。最初に観たときにある程度の察しはつきましたが、冒頭からずっと混じっていた“記録”が頭の中でめぐりにめぐって、最後の10分間くらいは何か考えられるわけではなく、ずーっとズルズルただただ泣いていたなと。
それから帰り、電車に揺られながら、内容を整理して、次観るときどうしよう、私は耐えられる?そんな気持ちがよぎりました。でもこのままチケットを手放すのも、と思ったのである確保していた分は見届けよう、と決めました。それに、時期的にもいつまで公演できるだろうと思ってしまうような状況であったのも確かであったし。

楽とmonoの親子であると分かった上で2人の姿を観てしまうと、その時点でもう泣けちゃってしょうがなくなるんじゃないかと思った。というか1度観てしまったらもう前半のシーンでも笑ったりできないな、なんて思ってたんですけど、その心配、個人的にはそこまで要らなかったなと2度目の観劇中思いました。本当に出演されてるみなさんすごい…

 

 とはいえ、1度内容を知ってしまった後に観劇する際どのようなスタンスで観に行けばいいのか、どう自分の中で受け入れていくべきなのか、それはとても考えました。それにせよ、舞台の内容としては1度では理解できなかったところが多すぎる…とはいえすべての内容といったところを理解するのはきっとできないだろうなともそのとき思いました。


ひとまず、「今」どう思ったか、そこを大切にしておこう。気になった言葉は調べたりしながら。そんな中でも、ノンフィクションの部分である事故に関して公演を観る予定がある中で調べることはできないと思いながら、チケットを手にした公演の全てを観終えたのでした。

 

 

 ちょうど題材になっていたアフターストーリーズも録画していますが、いつかいつか、と思いながら未だ再生ボタンを押せていません。その他の雑誌のインタビューとかも、全てには手をつけられていないという。元から雑誌は買ったらもう自分のモノダ!!となり、いつでも読めるし取っておこ!と、放置しがち人間なのでそれも要因の一つだと思います…

 

 放送が決まって、ある程度はネタバレ等をあまり気にせず話せるタイミングが近づいてきて、改めて、自分自身はどう思ったのか感じたのか、時間が経過していけば少しは分かるかななどと漠然と思っていましたが、まだまだ人生経験の浅いからなのか?そこまでは至らなかったようです。このように書いてしまうとまるで何もかも分からなかったようになってしまう?かもしれないですがそうではなく。

 

 ふと、リーフレットにあった野田さんの言葉に目を通してみようと思って公演を観終えてから初めて読み返してみました。公演を観る前はNODA・MAPの作品はこれが初めてで、物語を解釈するのが難しい?とうっすら聞いたりして、私は舞台を観に行くことがたとえできたとしてもどこまで理解できるのだろうとこの言葉を読んで思ったなぁと。それが、舞台の内容を踏まえた上で読み返すと、そういうことか、と分かる。まさに、終演後に沸き上がった気持ちだ。この「分かった」という感覚、良さもあるけど恐怖も同時にあるなとこれを書いているうちに感じてきました。

 

 「分かる」が増えていくこと自体は良いことだと思います。それこそ分かることで視野が広がることもあるし、実際にそう思う場面も存在する。ただ、“作品を感じる”という上では、視野が狭くなることも逆にあるかもしれない、とも思って。ここでこれを引用してるからきっとこう考えているんだと考察していくことも大事だとは思うしなるほど、とも思う。でも、それってとらわれてもしまうのかなと。

 

 公演後に漠然と感じた、深く重たい空気が漂う中でうっすら光が見えたように思えた、そんな感覚を大切にしてもいいのかと。

 


 楽が「生きるよ」とmonoに向けて返信する。

 

 私が公演後の帰り道、この作品をふと思い出したときに浮かぶ言葉。そしてこの言葉を聞くたび、思い出すたびに、正直もううんざりだと思うことがこの世に繰り返しあっても、どう受け入ればいいのか、と気持ち的に消費されながらも足を運んだのは、この「光」に対して希望を見出していたからだったのかもしれないと。もしかすると、この舞台から受け取るものがそれだけだとしてもいいのかもしれない、とも。

 作品の解釈は、はじめからどんな捉え方をしてもよいものだとは思っています。

ですが、実際に起こってしまったことがそこに加わると、それだけでいいのかという想いになるのも確かです。そして、そう感じることがいけないわけではないし、自然と考えてしまうこともある。でもこれが「作品」だからこそ、捉え方の選択肢が増えるとも思えたり。

 

 この先、作品に触れることがあったら別ことを思うのか、それとも今と同じことをまた思うのか。ただ自分の意思で再生させるのはこっちも当分は難しいかなと思いつつも。

 

ひとまず!WOWOW放送後のインタビューを踏まえて作品を捉えられるということと、放送を機に作品に触れるという方もたくさんいると思うので、新たな声を知れたらいいなと思ってます…!

 

もしかしたらインタビューを観てまた追記したりするかもしれないですが、このへんで!ひびのさんの個展に行ったときの写真を添えて。

お付き合いいただき、ありがとうございました!

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